やらないことを決める

やらないことを決める

「あれ、この支払いは何だったっけか、おぼえがないなぁ」とは、特に初めて事業計画なり経営計画なりを立てるに当たって、よくお客様から聞くフレーズである。

多くの新設の中小企業においては、会社を設立し事業を始められた当初は定期的・安定的な売上を作るために、日々奔走されるケースが多いと思われる。そのような創業期を3~5年と経ていっても尚、採用や育成、日々の顧客対応から次への取り組みなど、やるべきことは枚挙に暇がなく、多忙を極める経営者も少なくはないと思われる。

そのような過程を経る中で、改めて自社や現状について振り返る・正しく認識するという重要な作業を疎かにしてきてしまうと、冒頭のように、気づくとよく分からない経費などの支払いが意外と残っていたりするケースがあるようなのだ。

また一方では、統計データによると人は齢を重ねるごとに保守的になる傾向もあるようで、それまでの経験や取り組みに執着し、止めるに止められぬ習慣や取り引きを残したままにしがちな側面もあるという。優れた事業家たる経営者ほどと言って良いか分からぬが、過去の栄光や成功体験には当時の流した汗や涙なしには語れぬ努力や苦労の証でもあるのだろう、いずれ事業承継するなりで引き継がれる己の魂を、何らかの形でレガシーとして会社に生き続けさせたい気持ちにもなるのかもしれず、どんなに経営環境が変化しようとも新たな投資や展開とは逆行した舵切りをされてしまうことも世の中にはあるという。

自然科学的な絶対的真理や絶対的法則とは違い、その時代その時代で変化し在り方も変えてくのが実学としての経営なのだと私は思っているのだが、経営哲学または経営の王道と呼ばれるようなメソッドでは、何かしら改善などを行う際には「まずは捨てるべきを捨てること」が第一にくることが多い。「5S活動」と呼ばれる5つのSのうちの1つめも、やはり「整理」から入る。整理とは捨てることだと言う。

逆説的ではあるものの、上述したような現場や現実が世の中には多いことを暗に指摘しているとも言えそうではあるが、捨てる勇気・止める勇気は自身で大きくも小さくも意思決定される主体者である経営者にとっては、中々踏み切れないポイントなのかもしれない。


「やらないこと」 を決めている、ある経営者の話

先日、この「やらないことを決めている」経営者の方(以下、A社長およびA社と呼ぶ)と意見交換させて頂ける機会が得られお会いしてきた。A社長はまだ自身の会社を起業されて数年ではあるものの、身を置かれる業界には数十年関わってきていることから、磨き上げられた独自の経営観やノウハウをお持ちで、様々な観点からお話を伺うことができた。

終始笑顔を絶やさず、こちらが質問することに対しては何か濁すことなどもせず大変丁寧に対応してくださり、誰に対しても紳士で気さくな方であるのだろう印象を受けた。財務内容も良好なところなどこちらが主とする分野についてお話する際にも、興味深く耳を傾けてくださりながら少し照れる場面などもあり、にじみ出るA社長の人柄に帰る頃にはファンになってしまっていた。また是非お会いしたいなと思いつつ、大変刺激的かつ貴重なお時間を頂戴することができ多くを学ばさせて頂いた。

A社長の中で最も重要性高く「やらないこと」とされていたこととは、自社のサービスを“安売りまたは安易な値引きなどして売る行為”であるという。

なんだ、当たり前じゃないか、と思われるかもしれない。

しかし、A社は何か独占的またはすこぶる独創的なビジネスまたはニッチな市場で事業されている会社ではなく、競合ひしめくある程度飽和しているような業界・市場で事業を行っているのである(ちなみに不動産関連の事業である)。つまり、ある程度の規模を維持しよう、または経営環境の変化への対応も考慮した上で年々しっかり成長を遂げていこうとするに当たっては、どこか価格競争しなければ市場競争に負けてしまいかねない危険性の高い領域、とも言えるかと思う。そのような中であっても、安売りや値引きはしないと決めているのだ。もちろん、そもそもの定価が安い、というわけでは決してないことも付け加えておかなければならない。

A社と同業の会社も存じているため、私(筆者)もある程度の相場感覚はあったのだが、確かにA社長のおっしゃられる通り、まず安いことはなく、むしろ本市場における相場に対して割高感はあるなと感じた。

A社の場合は売上に対しておおよそ50%ほどを外注費として支払い、残り50%が限界利益として残るようなビジネスモデルである。限界利益とは、管理会計上の事業性評価として最も重要な1つの利益・概念であり、様々な意思決定に有用な指標でもる。また、厳密には相違するものの付加価値とも概ね近く、つまりA社に於いてはおおよそ付加価値率50%、事業そのものの妥当性が高いことを意味する数値でもある(付加価値率50%を下回る場合には、市場そのものが飽和・成熟・衰退などのいずれかの状態であったり、または自社のビジネスモデルなどの脆弱性なども原因であると言われているが、中小企業の場合は50%を達成することは相応にハードルが高いことが多いと言われているようだ)。

外注費に関しても割合ではなく金額としての取引規模で算出してみると、やはりそもそもの定価が相場よりも高めなことから、こちらも決して安く外注していることではないことが分かる。その上で自社として50%の限界利益を稼いでいるというから驚きであった。決め手は顧客との契約、またはその前段階にあったのだ。


「やらないこと」が「やるべきこと」を明確にする

「定価を下げることは簡単ですよ。ウチの方が安い、でご契約してくださるお客様もきっと一定数以上はいることは分かっていますし、もしかしたらその方がより早く契約件数を獲得するのに貢献するのかもしれません。でも、それやっちゃうと、結局弊社の魅力や存在する意義が薄れてしまうと思うんですよね。社員の採用や定着に関しても、魅力や意義の薄い会社で働きたい・働き続けたい、と思って入社したり働かれる方って恐らく少ないんじゃないかなぁと思うんですけど、入社したらしたで残業が定常化しちゃって疲弊が生まれると思うんですよね。で、辞めちゃったり問題起こしちゃったり、経営としても二重三重に採用費や教育費はかかるし、細かい手続きも繰り返すことになって顧客からの信用も薄れてしまう、クレームになる、契約が減る、と。こうなることは当たり前のことだって私は思っているから、だからやらないって決めているんですよね。」とA社長は語ってくださった。

そのうえで、「そう決めているからこそ、営業やブランディングには強いこだわりを持って取り組んでいます。提案や見積り交渉も絶対に手を抜きませんし、スピード感やレスポンススピードは常に意識しています。それから、外注先もしっかり選定していまして、すべては顧客のためにスクラム組んで一緒に価値あるサービスを提供できる体制を作っていこうと、大切なことには一切手は抜いていませんと断言できます。これこそが当社の魅力であり、やるべき経営努力なのだと思っています。」と続けてくださった。

更には、ここで記載するよりもより詳細な具体的な取り組み、そして今後の展望などもお聞かせくださったが、さすがにA社の独自性ある強みの領域となるため割愛させて頂くことご容赦頂ければと思う。

いずれにしろ、設立時より順調に顧客数を伸ばし、労働生産性がすこぶる高く毎期大きく利益を残し自己資本を充実されているA社の成長性は、こうしたA社長による経営観によって裏付けられていることが分かる。そのほかにも、A社社内には至るところにそういった経営観が垣間見られるような設備であったり備品などが用意されており、雑然とした雰囲気はなく、常に電話であってもとても気持ちよく対応してくださるが、それらについてもA社長が語られるところ、考え抜かれた末のものであるとのこと、首尾一貫したA社には更なる魅力と成長性が増すだろう期待を感じることができた。恐らくは、得意先である顧客もまた、このA社またはA社長の魅力にひきつけられてご契約されているのだろうと想像することができた。


今回のケースでは、A社長が細かくすべてにおいて明瞭かつ明確にお答えくださったことが大変印象的であった。「まぁ、なんて言うか、そういうもんじゃないですか」などと濁すことなく、自社が行うことの理由が明確であるという点である。この明確さが、顧客に対しても社員に対しても、その経営観を体現し提示できる一貫性に通じており、A社そのものの真摯さが強みとして活きているだろうことを感じられる大きな学びとなった。

やらないことを決めることとは、自身の考えや信念が明瞭・明確であるか、の裏返しなのかもしれない。

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